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哲学いろいろ

文体―第十九章 人麻呂とスミス

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
(photo=nayama,yukikazu)
2005-01-27 - caguirofie050127よりのつづきです。)

第十九章 人麻呂とスミス

けれども 観念のデーモンが 《世も末だ》と言うのと同じく 観念の政治が 《わたしたちは 運命共同体だ》と説くのです。観念的な確認でなければ その内容じたいはまちがっていないでしょう。
そもそも わたしたちが ことばを使って ものを言うということは いったい どういうことなのでしょう。
《世も末だ》という言葉の意味は いったい何であるか。《〈世も末だ〉と表現すること》 この行為の意味は 何であるか。なぜ そんなことを言うのか。なんのために言うのか。
わたしたちの理論では どんな表現・どんな文体であるに限らず 《自然》の過程のなかにあって 生きることが すべてを説明する そして もう少し色をつければ 《自然》をたがやして よりよく生きることの過程だというのが ひととおりの説明でありました。
《よりよく》の内容を もう少し詳しく見るならば 概念=ことばを用いて ふつうに(先行・後行のふたつの領域を順序よく)すすむ場合と これを観念とし さか立ちさせて進む場合とが あるだろうと考えていた。

  • 科学に対して生活が先行する。自己到来が最も先行して 生活する。あるいは 自然本性の基本主観が先行するも その《人間なるもの》を押し立てて文体するというよりは 男もしくは女という性をも伴なって 過程的な文体として発言する。等々。

《世も末だ》の意味を確認し これを情念として(あるいは これに情念を込めて) 他の人の応答を期待するばあいは 概括的な理念をつたえようとしているのではなく 少なくとも その人においては 念観となっている。まわりの人が そこに ある種の鬼のちからを感じるならば ことばである概念が 逆立ちしがちである。概念に対応するか 観念に反応するかの違いが生じている。単純にいって 《よりよく》といった価値の問題は ここに発生している。そして こういった倒立のことばを含めて まずはおおきく じつは 《自然》の過程――生きること――の関数であるのが ことばの表現であった。

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