文体―第十七章 迫害という観念
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(2005-01-25 - caguirofie050125よりのつづきです。)
第十七章 迫害という観念
なぞの自然なる《はじめ》
はじめにことばがあった。
(1:1)
- 作者: 川端由喜男
- 出版社/メーカー: 教文館
- 発売日: 2011/10
- メディア: 単行本
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ということば使いを 文体のうえで わたしたちなりに考えておくことにします。この《はじめに》にかかわって 《意味》の観念化が生じ 《情念》のデーモン作用が拡がり この無効が実効性を持ち 経験領域において有力となったあと そこへ このデーモンに対する鬼退治が始まる時 たしかにこれが踊り始めるなら 迫害の問題が起きるかに想像されると思われる この点についての話しになります。
ファウストが扱った上の一文の問題の初めに この一節のあと
ことばは かみとともにあった。
ことばは かみであった。
このことばは はじめに かみとともにあった。
すべてのものは これによってできた。
できたもののうち ひとつとして これによらないものはなかった。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書1:1−3)
とつづくのだから ここで 《かみ》を わたしたちは これこれだと はっきり示すことはできないけれど あの《自然》のなぞを かたるものと思われる。まず そう考えられる。
だから この福音書では 明らかに 経験領域で使われることば 文体の経験行為としてのことば のことではない。もっとも しかも
〔このことばは〕世に来た。かれは世にいた。・・・かれは自分のところにきた・・・。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書1:9−11)
というのでもあるから 自然本性の経験領域とか環境自然ないし社会とかと 矛盾したり無縁だというのではない。
問題の第二に 原文(ギリシャ語)では 明らかに 《ロゴス》という言葉であって つまり《ことば》のことである。このロゴスという言葉は レゲインという動詞から出たもので つぎのような意味があるという。