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哲学いろいろ

第八章 ツァラトゥストラ批判

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
三輪山
[えんけいりぢおん](第七章−ニーチェ批判) - caguirofie041108よりの続きです。)

第八章 つづき(ツァラトゥストラ批判)

 ニーチェツァラトゥストラ思想は 表現の問題でも大きな論点をなすと考えられる。
 一般的に言うとすれば 表現の問題とは 人間が人間のことで表現することのすべては あくまで表現行為としてのみ成り立つということだ。

  • 表現内容と 行為事実とのあいだに 関連性がある場合 全くの同一内容だとしても 問題が別ということである。その上で 改めて 関連性が捉えられる。そのこと(一般に 答責性)については すぐあとに述べた。

《人間が人間のことで》というのは 《わたしがわたしの主観において世界のあらゆることがらについて》ということだ。《人間》というもの(一般的な類概念)が存在するかどうかは 人間にはわからない。しかも人間どうしのあいだで その概念=ことばとしては 共通に了解するものとなっている。これが――従って あくまで各自の《わたし》を介しての――表現の問題ということになっている。《文字(その想像力のみ・ないし形而上学)は殺し 霊は生かす》。これは――人間なり表現なりが―― 一方では 絶対的な存在・実体・あるいは道徳・倫理規範ではありえないということ。他方では 各個人の主観真実が主観真実としてはそれとして成り立ち これとして互いに自由に認め合うことになるということ。そこでは虚言をかたることさえ自由なのであるが たとえ虚言を語ったにしても それは 社会的な人間関係の上で 基本的には その人の主観真実であるとまずは見なされることになる。それゆえまた 人間にとっての主観真実の自由な表現には 責任が必然的に伴う。すなわち 一つの発言ともう一つの発言との間に 矛盾がおこれば いづれか一方を撤回するか 両者を調整・修正するか それともその矛盾にやむをえない事情があること・または 本当には矛盾ではないことを説明してみせるか これらを内容とする表現行為の答責性が そもそもの初めから 付随している。従って この《他方》の側面では 表現の問題は まったくの表現しっぱなしの勝手な行為であるのでもないということ。
 すなわちあらためて 表現は 絶対的な規範でもなければ まったくの無規範(無基準)でもない。たとえ無規範・無秩序(あるいは混沌)が そもそもの〔表現の〕自由には含まれざるをえないとしても そのときにも 人びとは そこに 相対的には 規範や秩序の無(すなわち矛盾)をとらえることまでは なしうる。そのように矛盾や不都合をとらえあいうるなら そこに相対的な基準があるとされうる。

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