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哲学いろいろ

第七章 ニーチェ批判

目次→2004-11-28 - caguirofie041128
[えんけいりぢおん](第六章−イザヤ&イエス) - caguirofie041104よりの続きです。)

第Ⅱ部 誕生せるわたしの話し合い

第七章 ささやかなニーチェ批判

 われわれはここで(《えんけいりぢおん》と題しての思索=随筆で)明らかに わがキリスト信仰としての生活を語ろうとしている。まだ必ずしも その信仰を直接には語っていない。初めに――できるだけいわゆる価値自由的な前提としての――認識について触れていこうとしている。主題はすでに 《神》〔とわれわれ一人ひとりとの関係〕とは何かである。表現の問題という課題であった。《存在》の理論が その具体的な焦点となっていた。
 いいかえると まず――いまの設定の限りで――《主=ヤハウェー》とは 《存在せしめる者》という語意そのものとしては 人がみずからの生活の中でみずからの真実を語るときの その表現の中に用いることばに過ぎないという一つの立場に立っていた。さらに言い換えるなら 他方でいまのこの表現を用いない場合には――すなわち この《有らしめる者/頭をもたげさせてくれる者/〈誕生〉として有らしめる者/つまり むしろ自己に還り自己の弱さを誇ってのように それゆえにこそ 頭をもたげ この自己の存在をどこまでも保持していく過程》 こういった表現を直接用いない場合にも――事の内実は 一人ひとりの主観現実として 古今東西を問わず 誰にも同じ共通の条件において過程されるであろうと見通したうえでのことであった。具体的に 万葉の歌に同じ条件と事情とをとらえていた。
 この限りで いま述べようとしていることは もはやすべてが この基本出発点(それじたいが動態)のことを措いてほかにない。この出発点は あくまで表現上の主観真実であるゆえ そもそも自由であって 具体的には世界の中で人によっては 互いに異なった内容が抱かれ これが表現されてきうる。この前提に合わせて立つならば 具体的にさまざまな事柄や論点について広く話し合いの過程を保ち 批判をも述べあっていくことが 肝要であると思われた。その限りで 闘い=何もしない闘い・すなわち話し合いと名づけた。実際にはここに 基本出発点の問題と焦点とが 移っている。われわれは このような現実の場を生きている。

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 ここで かのニーチェを取り上げたい。

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