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哲学いろいろ

第六章 イザヤおよびイエス

目次→2004-11-28 - caguirofie041128


[えんけいりぢおん](第五章−何もしない闘い) - caguirofie041101よりの続きです。)

第六章 イザヤおよびイエス

 このような《存在》にかんする何もしない闘いの繰り広げられる現実の舞台は とうぜんの如く 人類史とともにあった。歴史を経て その思想が いくどとなく 繰り返し 述べ伝えられてゆく。その中には いま 水平的な人間関係の地点から見れば いわゆる神がかりと見えるような表現にも 広がっていったとも考えられる。問題は 人びとのあいだの 主観と主観との関係 主観真実と主観真実との闘い すなわち わたしたちからすれば 何もしない闘い これが どこまでもいわゆる民主的で自由な話し合いとして過程されることだと思われる。同じくわれわれから見れば たとえば民主主義の進展に照らして 歴史を経るにしたがい 何もしない闘いについての確信が深められていくと言える。と同時に あえて逆に言うとすれば 何もしない弱さの誇りとしての話し合い過程であるからには 確信が深められていくに過ぎないとさえ言い換えられもする。
 わが国に例をとるなら 人麻呂も逝き旅人も憶良も去っていったあとにも かれらおのおのの――しかも基本出発点として共同の――あの《自己の誕生》の問題 これとしての思想・つまり生活態度 これが 大筋では 承け継がれ 歌い継がれ またそこでの話し合いの過程もその内容が 時代に応じて 決められていくのだと考えられる。
 再びたとえば 《主=ヤハウェー=つまり 〈存在が存在する時に 表現上 その推進力と見なされ 人に受け容れられた者〉》――つまり要するに 経験実態としては 《存在せしめる者》ということばの表現のみなのだが――の系譜では 次のように うたいつがれた。

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